ホームレス人生講座 風樹 茂
最近,ネットカフェ難民やホームレスという言葉がテレビなどでも盛んに聞かれるようになり,また不可解な犯罪も多く,実際このままだと世の中はどうなるの?という感じがしてこないでもないので,その関連の本を読むようになった.
(ネットカフェ難民,累犯障害者など.)
その中で,この本はいろいろな人のホームレス人生を取材して,どのようにしてそこに至ったかに関して書いてあり,ある意味で累犯障害者で語られた様々な障害者の人生のホームレス版といった感じであった.
累犯障害者もかなり考えさせられる内容で,この本を書いた著者のような人が政治に関わっていると思えば少し安心も出来そうな気持ちにはなれるのが少しの救いだ.
累犯障害者の問題は確かに政治によってかなり解決できる問題でありそうではあるが,ホームレスの件に関しては,この本によると戦争に負けたところが原因となっているので,確かに政治が問題ではあったのだが,さらに輪をかけて難しい問題だなと思わされる.
(つまり,最終的な私の結論は違う結論である.)
私は戦争に負けたことというより,その戦争をすることになったのも含めて,イギリスの産業革命が元は引き金を引いているという認識だ.
どうやら西洋文明というのは他の文化を破壊していき,自分と同化させる性質をもっていると思われる.
それはさておき,この本で確かにそうだなと思った箇所は「縁」についての話である.
私も「縁」は人生において非常に重要なものだと常々思っている.
人がだんだん,自分自分となっていくのは縁が薄いせいで,しかも縁が薄くなった理由は高度経済成長にあるという.そしてその高度経済成長は戦争に負けたことが原因だと.
この話の部分では岸田秀氏がペリー来航が原因で日本が精神分裂病になったという説を掲げていたことを思い出した.(黒船幻想)
高度経済成長により,引越しや都市への移住が行われ,地縁が薄れ,核家族化が原因になり,血縁が薄れ,どんどん無縁になっていく実態が描かれている.
私自身も祖父の出身地は新潟だったにも関わらず,しかも祖先は上杉謙信の家来にまでつながるらしいのだが,今となっては何の縁もなくなってしまっている.
さらに私の父母は今,兵庫におり,私自身は横浜とこれもまた縁が薄い.
確かに言われてみると明治時代まで地縁・血縁は濃かったわけであるが,突然ここ100年も経たないうちに急速に無縁になっている.
「無縁」に陥ることがさも問題のように書いてあり,自分自身に当てはめても恐ろしく感じる.
縁が薄くて不安に思う気持ちは確かに私にもある.
だが,果たして本当にそうだろうか.
縁とは環境で決まってくる避けられない運命のようなものなのか?
そもそも本当に縁が薄いと生きていきにくいものなのか?薄い縁ではだめなのか?
ここに書かれてきた人たちは人生に何度かの分岐点が存在していて,確かに両親の離婚や様々な重大な外的要因などもあるにはあるのだが,絶対にこの人生しか歩めなかったか?別の判断は出来なかったか?自分の意志をもてなかったか?意志を持っていたとして貫き通せなかったかと問われればそんなこともないと思うのだ.
実際に血縁を大事にしたがために(親の病気を見るために),田舎に帰り,職を失って逆に自分が無縁になってしまった人もいた.別の判断もあったはずであるが,結果論で言えば運が悪かったとも言える.私自身の身の上にもこのようなことが起きることは十分考えられるし,その時の判断によっては同じような境遇に陥ることも十分ありえる.
確かにゴミ出しのルールを守らない無法地帯のような土地もあれば,新興住宅地でもきっちりルールを守っている土地もある.もともと「無縁」であっても適度な薄い「縁」は意志があれば作ることが出来るのではないだろうか?
結局,「環境」も大事だが,やっぱり「人」によるのではなかろうか.
ホームレスの最後のよりどころの一つとして宗教が挙げられていたが,結局,意志の弱さが自分の人生を方向付けて最終的に宗教に頼らざるを得なくなるのではないだろうか.(この本では精神的ではなく,現実的に世話にならざるを得なくなったようにかかれてはいるが.)
また,無縁と聞いて,「吉原御免状」を思い出した.
そこには昔から,世間とは無縁の暮らしをしていた傀儡子,山の民,遊女はそれでも味わい深い人生を送っているように感じられた.(隆慶一郎氏の他の本だったかもしれない.)
確かに時の権力者のいいなりにならない自由を持っていたのだから,それはあるだろう.
現代のホームレス,無縁の人々もそれはそれなりに楽しんでいる人もいて,ただ勝手に公園に住んでいて,時の権力側に睨まれるところまで同じで,結局戦争のあるなしに関わらず,昔から似たようなものなのではないかという思いもした.
社会とは「無縁」の人々の中では「縁」が出来ているのである,これも中世と変わらない.
社会の枠組みというものはその時代時代に無理やり作られたものなので,そこから外れる人たちはいつの世界にもいて,それはごく自然なことではないかということを思う.
縁がないと不安に思う人が多いというのは,いわゆる日本教?とでも呼べるものなのでないか?
縁がなくても不安に思わない人もいるのではないか?
いろいろ考えさせられるという意味でお勧めの本である.